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古くても守りたいものを守っていく。山本勝之助商店さんへインタビュー
Yamamotokatsunosuke

土田 高史
山本勝之助商店 店主
義父が亡くなったことをきっかけに大阪で勤めていた会社を辞め山本勝之助商店店主へ。
“地域に根差し、古くても守りたいものを守っていく”をビジョンに大切に長く使ってもらえる物を取り扱う。

山本勝之助商店
ウェブサイト:http://yamamotokatsunosuke.com/

山本勝之助商店の紀州山椒専門店
ウェブサイト:http://kisyu-sansyoya.com/

-この建物古いですよね。周りも古い家が多そうです。

この辺は古い家が残ってますね。うちは明治の13年創業なんですけども、建物はもっと古く、江戸時代からあるんですよ。登録文化財となっていますね。

-名残がありますよね。山本勝之助商店はどのように始まったのでしょうか。

元々は和蠟燭(ろうそく)を扱う、いえば蝋燭屋ですね。ここら辺は紀州藩で徳川御三家なので、蝋燭を将軍に献上するような商売が成り立っていたんですね。うちの商号「かねいち」はそのころからのものですわ。

徳川幕府が倒れ江戸時代が終わり、かねいちは廃業しかけたんですけど、山本勝之助(やまもとかつのすけ)の代で棕櫚箒(しゅろほうき)、束子(たわし)を扱うようになりまして。原料になる棕櫚の木が沢山あったので、それに着目して商売替えしたというのが起こりです。

ちなみにその時、勝之助さんは19歳でしたが、父親が亡くなり急きょ家業を継いだと。昔は元服ということで十代でも大人扱いだったので、若いころから商売の勉強をしていたようですね。

-タクシーの方にこの家の人は市長だったとお聞きしたのですが。

それは私の義理の父です。山本家三代、勝之助、金助、有造ときまして。そのタクシーで聞いたのは有造さんのことですわ。

勝之助さんは頑張って大商いにしたけども、二代目、三代目は商運恵まれずでして。三代目の有造さんの時には時代の流れもあって棕櫚は廃れていたんですね。それで地域では「かねいちのせがれ」ということで名前も通っていたので、政界へ出たという事ですね。

-有造さんの次に土田さんが引き継いだと。

義父が亡くなったのが10年前、その前に義母も亡くなっているので山本家の娘である三姉妹が残ったんですね。上の二人のお姉さんは海外におってですね、末っ子が私の嫁でして大阪で同じ会社に勤めていたんですけど、まあ、三女の婿になりますので、まさか商売を継ぐって話はないだろうと思ってたわけです。家に主がいなくなって、 商売は無理やと。この土地建物もいずれは手放してしまうんかなと。でもやはり山本家の三姉妹にしてみれば、拠り所がなくなることになる。 日本にいるのは大阪に住む我々だけ。僕ら夫婦は二人とも働いてたから、仮に1人になった所で、最低限の生活はできるやろと。ならこの家をいっぺん触ってみようかという事で、私がやりますと言ったんです。それが9年前です。

-いきなり引き継ぐことになったんですね。

そうですね。でも義父は政治家だったので、お店のことは何も聞いてなかったんですよ。幸いな事に勝之助さんにお世話になった人、有志が”山本勝之助伝”っていう本を書いてくれてまして。そこに勝之助さんがやってきたことがずらっと書かれてたわけです。昔の従業員とか取引先とかがそれぞれの言葉で書いてくれていました。これを読んでいるうちにですね、勝之助になったような気持ちで一からやれば、山本勝之助商店のこともよく分かるだろうと思い、まずはこれを何度も読みました。

継ぐ時は何も知らず、ただ古い家をなんとかしようってことだけを考えてた。そんな中で実は山本勝之助商店っていうのは地域への貢献度が高く、みんなが良く思ってくれていることが分かった。今お世話になっている方々も昔のことを知る方ばかりで、山本勝之助商店の土田ですって言っても「土田?誰ですか?」となりますけど、説明すると「かねいちさんとこかいな」「ゆうさん(有造の愛称)の娘婿かい」と。昔うちのおばあちゃんが働いとったとか、そんな話を沢山聞けるわけですね。本当にありがたいなと。それで手ごたえを感じて三姉妹といっしょに店の将来像を話し合い、「かねいち再生理念」というものを作りました。”地域に根差し、古くても守りたいものを守っていく”、というビジョンです。

-素敵な引き継ぎですね。そこから今まで商売を続けてこられたと。

商売としては2007年からですね。10シーズン目に入りました。

初めはとにかく物を仕入れない事には商売できない。だけど仕入れたのはいいけど売れなかったらどうしようかなと。

そこで、うちの倉庫をみればこんなもの(事務所にある棕櫚の箒を指差して)があったわけですよ。同業者はコストが合わないので棕櫚製品はあきらめて、化学製品を取り扱っています。仕入先を見にいくとアルミ製の箒やナイロン製の束子ばかりでしたね。当時、僕が今からこの取り扱いが多い化学製品の世界に入っていくのは無理だと思いまして。そのとき僕は40半ば。もう歳も歳なので「10年でなんとかしないと」って思ってました。何かに特化しないといけないって事で、倉庫の棕櫚箒を自分で使ってみたらとても使いやすかった。そこで急いで職人さんを探したけど、棕櫚箒を作ってた職人さんってもう三軒しかなくて。その一軒にあなたが作ってくれれば私が全部買うから、全部売りにいくからと。で、作ってもらったのが今ここに並んでいる商品です。

-自分で使われて「これならいける」と思ったと。

それもね、確信があったわけでもないし、取引が絶えず来そうということでもなかった。今考えたらなぜ棕櫚に特化させたのかなと。やっぱり倉庫にあったのをみて、自分で箒を掃いてみたりとか、束子使ってみたりとかして、やっぱりその、”魅力”っていうのを感じたのかな。ただ、見た目も奇麗で、掃き心地も全然違うんで、そういう意味でまだまだ受け入れられる余地 はあるなと。で、何本か作ってもらった物や、倉庫にある30年前の物を引っ張り出してきて、はじめは販路なんかないので、寺などで行われている手作りマーケットなんかで売り始めたわけです。

-確かに綺麗ですよね。家の見える所に置いても映えるといいますか。

そう。見た目も大事なんだけど、棕櫚の場合は機能性もある。植物繊維なんだけど、元々は漁網に使われていたくらい水に強く、腐らない。多少油分もあって、柔らかい、しなやかだって事で、ほこりも取りやすい。

-となるとやはり主力は箒になりますか?

箒が多く売れてますね。と言ってもまだまだ家庭に棕櫚の箒が行き渡ってる状況ではないと思います。その中で有り難い事に購入頂いた方が気に入ってくださり友達に紹介したりとか、親にお祝いでと購入される方が多いですね。

-大切に使って頂きたいですね。

そうですね。大切に長く使ってもらう上で、山本勝之助商店として取り組まなければならない事もありますよね。ひとつはこの箒をどう存続させていくかがポイントです。私たちの店だけ残っても、職人がいなくなってはどうしようもない。地域とともにあるんですよ。ありがたい話で、箒が認められつつあるから今はそれができてる。やっぱりお客様には、良いと思われる物を使って欲しいのでそれは嬉しいのですが、”原料も入らなくなってきてこれからも継続的に作れるか”とか、”高齢化する職人の後継者はどうするの”とか、いろいろ問題もある。まだまだ手探りで、「どうしたらいいんかな」と思う時もありますよ。